ホモモルフィック暗号は、暗号化されたデータに対して復号せずに演算を行える暗号技術です。演算後の結果も暗号化されたままであり、適切な鍵を保持する者だけが内容を復号して確認できます。この特性により、処理の全過程でセンシティブな情報を安全に取り扱えます。暗号文上での演算という考え方自体は1970年代に登場しましたが、2009年のCraig Gentryによる完全ホモモルフィック暗号(FHE:Fully Homomorphic Encryption)の発明をもって、理論上の可能性から現実的な研究領域へと大きく進展しました。
ホモモルフィック暗号方式は、大きく3つのカテゴリーに分けられます。部分ホモモルフィック暗号(PHE)は加算または乗算のいずれか一方の演算のみをサポートします。RSAやElGamalなどが代表例です。準ホモモルフィック暗号(SHE)は加算と乗算の両方を一定の回数まで実行できますが、演算ごとにノイズが蓄積し、長大な計算には適しません。完全ホモモルフィック暗号(FHE)は任意の演算回数・複雑さに対応でき、最も高機能である反面、計算リソースの消費が非常に大きいという課題があります。
FHEが他のプライバシー強化技術と大きく異なるのは、データの利用過程全体を通じて暗号化状態を維持できる点です。従来の暗号技術は、データの保存時や転送時には保護できますが、処理時には復号してしまい、情報漏洩や悪用のリスクが生じます。FHEは、計算中もデータを暗号化したまま扱うことで、このリスクを根本から排除します。これは、パブリックブロックチェーンのような分散型かつ信頼できない計算環境で特に重要となります。
ブロックチェーンは透明性を基本設計としています。すべてのトランザクションやコントラクト実行はネットワーク参加者に公開されます。このオープン性が信頼と透明性を高める一方で、機密性を要する用途にとっては大きな課題です。金融取引、医療データ、本人確認情報、企業記録などは公開できない一方で、安全な処理が求められます。完全ホモモルフィック暗号は、計算結果の正確性や検証可能性を損なうことなく、非公開の状態で計算を実現し、機密保持と利便性を両立させます。
この仕組みの価値は、ブロックチェーンで活用される他のプライバシー技術と比較するとさらに明確です。ゼロ知識証明(ZKP)は、データの内容を明かさずに値や計算の正当性を証明しますが、証明者と検証者の役割分担が必要で、複雑な処理には適しません。マルチパーティ計算(MPC)は処理を複数の当事者で分散し、それぞれが情報全体を把握できないようにしますが、調整コストや信頼の問題が伴います。一方、完全ホモモルフィック暗号は、スマートコントラクトを含む中間者にも開示せず、単一の計算を暗号化入力上で実行できます。
この違いは、分散型金融(DeFi)や分散型自律組織(DAO)でも実用的な意味を持ちます。DeFiの貸付市場や自動マーケットメイカーでは全ポジションや注文が公開され、戦略が透けて見え、フロントランニングのリスクが高まります。DAOの投票では投票内容や意思決定が外部に知られることで、デリケートなガバナンス議論が阻害されることもあります。FHEの活用により、金融取引やガバナンスの行為自体はプライバシーを確保したままオンチェーンで実行し、必要時のみ暗号化された結果のみを公開可能となります。
完全ホモモルフィック暗号の発展は、実用研究に至る前から長い歴史を持っています。初期の暗号理論では、暗号文のまま演算を行うアイデアが掲載されていましたが、実装可能な方式は当時は存在しませんでした。2009年、Craig Gentryが格子暗号と“ブートストラッピング”手法を取り入れた最初のFHE方式を発表し、暗号文のノイズを除去して計算深度を無制限に拡張できることを示しました。もっとも、Gentryの初期モデルは非常に重たい計算コストを伴い、単純な演算でも数時間を要したのが実際です。
これ以降、FHE方式の研究は効率と実用性を追求し大きく進化しました。BGV・BFV方式は整数演算の最適化を達成し、CKKS方式は近似計算を可能とし、暗号化状態での機械学習などに応用が広がっています。TFHEやFHEWはビット演算や高速ブートストラッピングの分野でさらなるスピード向上を実現しました。これらソフトウェア的進化に加え、GPUやFPGAによるハードウェア加速も進み、FHEは理論の枠を超え現実の展開可能技術へと成長しています。
FHEの進化と並行して、ブロックチェーン技術も発展しました。ブロックチェーンは検証可能なオープン計算を提供し、FHEはその処理データのプライバシーを守る役割を担います。2023年には、ZamaのfhEVMやFhenixのConfidential Rollupなど、新たなプロジェクトによってFHEがスマートコントラクト環境へ直接統合された事例が登場しました。これらのプロトタイプは、暗号理論とブロックチェーン現場のギャップを埋め、機密性を持つ分散型アプリケーション実現に新たな時代を迎えています。
ブロックチェーンのスマートコントラクトへのFHE導入に関心が高まる背景には、複数の潮流があります。データプライバシーに対する規制はますます厳格化しており、EUのGDPRや米国の新しいプライバシー法などでは個人情報の管理・取り扱いに義務が課されています。サプライチェーン・医療・金融といった分野でブロックチェーン活用を検討する企業は、すべてをオープンにする台帳では規制違反の懸念を回避できません。FHEは、基礎データを公開せずにオンチェーン計算を行うことで、法令順守とブロックチェーンの両立が可能となります。
実世界資産のトークン化や機関投資家向けDeFiの成長もプライバシー需要を後押ししています。大手金融機関は、取引規模や相手方、取引戦略などを完全に守秘したまま、パブリックネットワーク上で決済や取引実施を要請します。FHEを利用したスマートコントラクトは、暗号学的証明を通じた監査可能性と、非公開での取引や決済というニーズを両立させます。
また、ブロックチェーン上でのAIや機械学習の活用が進むにつれ、暗号化状態での計算需要も急速に高まっています。医療記録や独自のAIアルゴリズム等の機密データに基づくモデル学習・推論には、情報の安全な管理が絶対条件です。FHEを用いることで、暗号化情報をブロックチェーン上に直接保持でき、AIエージェントが安全に活用するなど、新たな可能性が広がります。
完全ホモモルフィック暗号は、他のプライバシー技術を全て置き換えるものではなく、相補的な存在として機能します。ゼロ知識証明は、残高の証明や所属確認などの個別証明を効率的に行います。セキュアマルチパーティ計算は、複数の参加者が互いの秘密情報を明かさず協調演算を行う場合に強みがあります。一方、FHEは、参加者間の調整を介さず、連続的かつ任意の処理を暗号化データ上で実行したいユースケースに適しています。
この特性から、今後のプライバシー強化型スマートコントラクトは、ハイブリッド型アーキテクチャが主流となるでしょう。たとえば、FHEで暗号計算した結果の正しさをZKPで証明したり、秘密鍵管理にMPCを組み合わせたりといった実装です。FHEの適切なユースケースを理解し、分散型システムのプライバシー設計に生かすことが、重要性が高まると考えられます。